女子バレーの、“東洋の魔女” は、元々、企業チームに付けられたニックネーム
「東洋の魔女」 と言えば、1964年の東京オリンピックで、
金メダルを獲得した、女子バレーボール日本代表の、ニックネームとして知られている。
金メダルを懸けた、ソビエト連邦との決勝戦の視聴率は、
”66.8%(関東地区)” にのぼり、日本中が熱狂して応援していたという。
しかし、「東洋の魔女」 のニックネームは、元々は、
実業団の、日紡貝塚女子バレーボールチームに付けられたものである。
日紡貝塚は、1961年の欧州遠征で、各国のナショナルチーム相手に22連勝し、
ソビエトからの外電で、「東洋の台風、東洋の魔法使い」 と伝えられたのが始まり。
1962年の世界選手権には、日紡貝塚の10選手と、高校在学中の2選手で挑み、
柔道の受け身に似た回転レシーブや、変化球サーブなどを駆使して、全勝優勝。
日本が、団体競技で世界の頂点に立つのは、初めてのことで、社会的なニュースとなった。
この躍進の要因は、「鬼の大松」 と呼ばれた。
大松博文監督の、超スパルタ指導にあったと言われている。
15時に仕事を終えてから、深夜まで続く練習で、無敵の日紡貝塚を作り上げた。
世界選手権で優勝した、日紡貝塚の選手たちは、ご褒美に世界一周旅行をし、
結婚適齢期の選手達と大松監督は、引退を表明した。
そこに入ってきたのが、1964年の東京オリンピックから、
女子バレーボールが、正式種目に決まったとの一報だった。
日本バレーボール協会は、「東京オリンピックまで続けて欲しい」 と訴え、
ファンからも手紙も殺到。
大松博文監督が、選手たちに放った、「俺についてこい」 の一言で、
キャプテン・河西昌枝らが、現役続行を決断。
オリンピックまでの2年間、選手たちは、15時に仕事を終えてから、26時まで練習、
監督も、16時まで仕事をしてから、練習に参加していた。
そして、迎えた東京オリンピックでは、決勝までお互い全勝で勝ち進んだ、
ソビエト連邦と対戦して勝利し、金メダルに輝いた。
なお、1959年11月から続いていた、日紡貝塚女子バレーボールチームの連勝は、
オリンピック後も続き、1966年8月に敗れるまで、258試合公式戦連勝をしている。